江藤先生が亡くなった。
だいたい死者と生きているものの間に境はあるのだろうか・・・
いつもブリュッセルというちょっと「離れた」ところで生活しているせいか、あるいはもともと私がこういう性格なのか、現在生きている人、同じ土地にいる人たちとでも疎遠になることが多い中、死んだ人との交流もさして生きてる間と変わらないといつも感じる。
現にゼルキンやヴェーグ。今でもはっきりと彼らの存在を感じる。
日々新たに彼らの音楽に新鮮さを覚える。
昨年の夏のこと、ここベルギーのあるフェステイヴァルで急遽弾くことになった。夕暮れ、演奏会前に庭園を散歩しているとその光があまりに「マルボロ」の光景に似ている。その胸を突かれるような「想い」にゼルキンの存在を感じた。いや「感じた」というような生易しいものではなく、まるで「それを感じるために私がそこにいる」のだった。
ヨーロッパの夏の夕方の何とも心地良い風のなかで、胸をしめつけられるような懐かしさを感じた。
なぜ以前に気がつかなかったのだろう。
今日も生徒にモーツアルトの4番のコンチェルトの2楽章を教えていたら江藤先生の言葉、ピアノを弾いてくださった様子。一つ一つのフレーズに込められた言葉、すべて思い出して、涙がこぼれそうになった。
「天上のような音で、弓の毛1本。細かいヴィブラート」
「テーマは小さな音で内向的。でもアダジオじゃありまんよ。バラードでもありませんよ」
ここブリュッセルのアパートにも来ていただいた。自らの手料理をそれこそ、身も縮む思いで作り給仕し、ナイフもフォークも新品。家中ピカピカに磨きあげ・・・
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